2015年11月17日
みんな地球の子どもじゃんとは?
様々なジャンルのアーティストを中心に、若年層へ困窮する子どもたちの現状・今何をするべきかを発信し、日常で参加できる社会貢献を実現する団体です。インドネシアで教育支援、福島を始めとした東日本大震災で被災した子どもたちを支える活動をしています。
東日本大震災から4年半以上が経ちました。
多くの人の心からは震災が過去の経験となり、「風化」という言葉さえも聞こえなくなりつつあります。
しかし東北で大きな被災をした方々にとっては、生活が一変し、今もその中で生きています。
例えば、家族が離ればなれになってしまい、今もお父さんと一緒に暮らせない子どもたち。
彼らが感じている、心の声とは・・・
その時、福島の人たちはどういう状況だったのか・・・
提供:
みんな地球の子どもじゃん
それまでは、インドネシアの子どもたちが学校に行くための様々な支援を行ってきたみんな地球の子どもじゃんですが、東日本大震災後、その活動は一変しました。
なかでも、原発事故後の福島県から北海道への自主避難のアテンドでは問い合わせから住宅の申請、許可取得、北海道までの同行と、その全てを行ってきたのですがそこで見た現実は、今でも頭から離れる日はありません。
その時、福島の人たちはどういう状況だったのか・・・
当時、福島県全域は「災害救助法適用地位」に指定され、北海道だけで無く全国の自治体が、2年間家賃無償で、公営住宅などを開放し受け入れをしていました。
ところが、私たちが2011年5月に福島入りした時は、そのことをほとんど人が知らなかったのです。
そこで、その2日後に北海道庁へ行き交渉の結果、正式に受け入れ団体と認定され、北海道への避難を呼びかけることとなったのです。
福島で一緒に行動したのが「山本太郎」さんでした。
子どもたちを何とかしなければと手探りの中、とにかく行動を起こすことが優先される状況だったのです。
これはその時避難を呼びかけた時、送られてきたメッセージです・・・
いま私は福島県郡山市に住んでいます。原発事故から家の窓・通気口をテープでふさぎ週末は車で遠くに子供を遊びに連れてっています。
これから夏が来るのでここで閉めきりの生活も限界がくるのではと不安でいっぱいです。
まわりの同意もなかなか得られませんが北海道への一時避難も本気で考えています。
ただネックなのが家族と簡単に会える距離でないことや北海道への交通費やあちらでの生活用品の調達についてです。
今回の震災でパパの仕事もストップしてしまい貯蓄も使い果たしてしまいました。
それでもやはり子供を外で遊ばせられないこの環境が怖いので、なんとか必死で情報収集に毎日あけくれています。
0歳児を育てていくには不安で仕方ありません。
住宅ローンを組んだばかりですが命には代えられません。
可能であれば北海道への移住を希望しております。
こうした問い合わせが毎日届きました。
電話も朝から晩まで鳴りました。
避難当日の郡山駅前の光景・・・
提供:
みんな地球の子どもじゃん
当日、郡山駅前で集合をするのですが、お会いしたこと無い家族でもすぐにわかります。
大きな荷物をかかえ、子どもたちはマスクをしています。
バスの前では、父親がいつまでも我が子を抱きしめ、バスの出る直前まで別れを惜しみます。
これからはじまる2重生活をささえるため一人福島に残る父親たち。
必要とする人へ情報を届けたにすぎない私に向かい、2歳くらいの小さな女の子を胸に抱きしめながら「この子をお願いします」と、何度も何度も頭を下げるその光景が、一日足りとも私の頭から消える日はありません。
そこから仙台港へ行き、フェリーに乗り込み15時間をかけ苫小牧へ、さらに移動して目的の住宅へ。
ひと月に一度、支援が打ち切られる、2012年の年末まで私はこうした光景を見て来ました。
あの子はどうしているだろう、あのパパはどうしているだろう・・・
あの時した選択は人それぞれです。
どちらも正しいとか間違っているとか言うことは出来ません。
しかし、私が目にした現実は引き裂かれる家族です。
私にも小さな子どもが3人います。震災以降生まれた子どもたちです。
家族と過ごす時、眠りにつく時、考えるのです。
我が子の成長を近くで見守ることの出来ない父親を、新しい土地でひとりで小さな子どもを育てる母親を、パパに甘えることが出来ない子どもたちを・・・
子どもたちにパパを届けたい・・・
提供:
みんな地球の子どもじゃん
今、行っている「パパに会いたいプロジェクト」は、福島に残る父親が、移住先の家族へ会いに行くための交通費支援です。
そうした現実があることを、このプロジェクトを通じて発信し続けなければならないと私は思っています。
ご家族から寄せられるメッセージには、数ヶ月ぶりに、一年ぶりにパパと過ごす子どもたちの姿、喜び、悔しさが書かれています。
この小さな声を、伝えなければならないのです。
そして、そこから自分のこととして考えた時に、大切な人のため、何をするべきかを、ひとりひとりが考えるところから、新しい未来が開けるのだと思うのです。
私が今家族とともに過ごせていることは、奇跡であり、これほどの幸せはこの世にありません。
「私たちは何をするべきか」
大切な誰かと離れなければならないとき、あなたはどういう決断をしますか?
パパに会いたいプロジェクトへ寄せられたメッセージ
札幌に母子避難をして、もうすぐ3年になります。
当時2才だった息子は、幼稚園の年長組になりました。主人は仕事のために福島で働いています。
毎回、千歳空港まで見送りに行きますが、泣くのは主人でも子どもでもなく、母子避難を決めた私自身です。
子どもを被爆させることなく、家族一緒に暮らしたい。
こんな事故前は当たり前の普通の事が、原発事故後はこんなにも普通生活が遠く、遠く、願っても願い続けても実現しない、今では夢になってしまいました。
理不尽な原発事故、家族一緒に暮らせない現実、いろんな思いが込み上げて、見送りながら泣いてしまう私の涙を、息子はいつも両手で力いっぱい拭いてくれます。
今回は18日の夜に主人が札幌にきて、21日の朝に福島に戻りました。3泊の間札幌市内の川で川遊びをして、西区にある三角山に登りました。
写真は三角山に登る、父と子の後ろ姿です。息子は父親がくると、朝起きてから夜寝るまで片時も側を離れません。
いつも短い間しか一緒にいられないことを知っているので、精一杯父親の側にいたいのです。
母子避難の生活の中で会いたくてもお父さんに会えない子ども達がいることを、多くの人に知っていただきたいです。
二重生活の上に、会うためだけにかかる交通費は家計に重くのしかかり続けています。
このようなプロジェクトの存在は、大変心強く思います。ありがとうございました。
このプロジェクトには皆様からのご支援でなりたっています。
あなたも、子どもたちのために、力を貸してください。
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